
戦国時代、戦場を駆け巡る武将たちの傍らには、常に旗が翻っていました。戦の趨勢を左右する情報伝達の手段であり、武将の個性や存在感を象徴する存在でもあった「旗・軍旗」。このページでは、戦国時代の旗に焦点を当て、その種類や役割、有名武将の旗印など、奥深い世界を探求していきます。
目次
戦国時代の旗の役割とは?
戦国時代の旗や軍旗は、単なる装飾品ではありませんでした。戦場において旗や軍旗は、戦の勝敗に大きく影響する、以下の重要な役割を担っていました。
部隊の識別
味方と敵を識別するための重要な目印として機能していたといわれています。特に、混戦状態では、旗や軍旗によって味方の位置を確認して、連携を取ることが不可欠でした。
指揮の伝達
旗や軍旗は、武将の命令を兵士たちに伝えるための指揮伝達手段としても使用されていました。声が届かない遠距離の兵士にも、旗の動きや角度を変えることで、前進・後退・停止・突撃などの指示が伝達されたといわれています。
士気の向上
武将の旗や軍旗が掲げられていることで、旗のもとに集まった兵士たちの士気を高め、一体感を醸成する効果がありました。武将の威厳や存在感を示す象徴であると同時に、兵士たちにとっての心の拠り所でもあった旗や軍旗を目にすることで、兵士たちは勝利への意欲を掻き立てられたといわれています。
種類豊富な旗の形と意味
戦国時代に使用されていた旗には、様々な種類があり、それぞれ形や意味が異なっていたといわれています。主な旗の種類は以下の通りです。
馬印(うまじるし)
大将や部隊長が、自らの居場所を示すために、自身が乗る馬の背に立てられた旗。大型で目立つものが多く、戦場での武将の位置を示す重要な役割を果たしていたとされています。
旗印(はたじるし)
竿の先に、家紋や独自の紋章が描かれた布や紙などをつけた旗で、戦場で武士が背中に差して、味方・敵を識別するために使用したといわれています。個人の所属や身分を示す役割の他に、指揮の伝達手段としても使用されました。
陣幕(じんまく)
陣地の周囲に張り巡らされた、家紋や部隊の紋章が描かれ幕。敵の侵攻を防ぎ、味方の士気をより一層高める役割も果たしていました。
有名武将の個性あふれる旗印・馬印
戦に臨む際に、戦国時代の武将たちは、それぞれ個性的な旗印・馬印を用いていました。先祖から代々伝えられてきた、家系や家柄を表す家紋をはじめ、武将が信仰する先人・神・仏による金言や、自らの志など、旗印・馬印は自軍のシンボルとしてとても重要な役割を担っています。ここでは、名将たちが使用していたといわれる、旗印・馬印の一部をご紹介いたします。
織田信長
織田信長は、当時流通していた「永楽通宝(えいらくつうほう)」という貨幣を図案化した旗印・馬印を使用していました。永楽通宝は、中国の王朝『明』の永楽帝が作らせた通貨で、江戸時代の初期まで実際に流通していました。ただ、信長が旗印に「永楽通宝」を採用した理由は、はっきりとわかっていません。有力とされる説としては、貨幣経済を重視していた信長が、経済力を誇示し、商業を奨励する意図があったのではないかという理由が候補として挙げられることが多いですが、真相については明らかにされていません。
豊臣秀吉
派手なものが好きだったといわれている豊臣秀吉は、旗地が金色に光っていて文字などは特になにも描かれていない「総金(そうきん)」と呼ばれる旗印・馬印を使用していました。総金は羽柴秀吉と名乗っていた頃から使用されていたといわれています。実際の戦場ではためく、金色に輝く「総金」は、豊臣秀吉の存在感を見事に表現していたといわれています。
徳川家康
徳川家康は状況や時代によって、徳川家の家紋である「三つ葉葵(みつばあおい)」や自身の願いだとされている「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」などと書かれた旗印・馬印を使用していたと言われています。 ちなみに、水戸黄門の印籠に描かれている家紋としてもお馴染みの「三つ葉葵」は、徳川家の先祖である松平家が加賀神社を崇敬していたため、使用されるようになった家紋です。 「厭離穢土欣求浄土」は仏教の浄土宗の言葉で≪極楽浄土に生まれ変わることを心から願う≫という意味の言葉で、戦乱の世を厭い、平和な世の中を願う家康の想いが込められていたとされています。
武田信玄
戦国武将が掲げている旗に書いてある文字で、おそらく最も知名度が高い文字「風林火山」と書かれた旗印・馬印を使用していたのが武田信玄です。正確には「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」(意味:疾きこと風のごとく、徐【しず】かなること林のごとし。侵掠【しんりゃく】すること火のごとく、動かざること山のごとし。)と書かれていました。この言葉は孫子の兵法にある、軍隊の進退について書かれた部分の引用ですが、引用の経緯などについては、はっきりとは分かっておらず、おそらく信玄は孫子の兵法に深い感銘を受けていたのではないかと考えられています。その他にも「南無諏方南宮法性上下大明神」と書かれた、信玄が信仰する諏訪明神の旗も使用されていたといわれています。
上杉謙信
日本では七福神の一尊としても有名な、仏教における天部の仏神で、持国天・増長天・広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神である毘沙門天(びしゃもんてん)。上杉謙信は、その毘沙門天の名前から一文字とった「毘」と記した旗印・馬印を使用していました。毘沙門天を深く信仰していたといわれている謙信は、自身を毘沙門天の生まれ変わりであると信じ、家臣にも『我を毘沙門天であると思え』といった発言をし、出陣前には毘沙門堂にこもって勝利祈願を行なっていたという逸話もあるほどです。
明智光秀
土岐氏の支流である明智光秀は、美濃源氏土岐氏の家紋である「桔梗紋(ききょうもん)」を白く染め抜いた、水色の旗地の旗印・馬印、または白地に水色の桔梗紋を染め抜いた旗印・馬印を使用していました。一説には、先進的な考えの持ち主としても知られている織田信長が、当時としてはとても珍しく、カラフルな色使いの「水色桔梗紋」を見てとても羨ましがったともいわれています。
石田三成
豊臣家を支え、太閤検地など多くの政策に携わり、戦乱を治めて世の中の平和を実現しようと制度を整えていった時代の立役者であり、関ヶ原の戦いでは家康の天下取りを阻止するために戦いを挑んだことでも有名な石田三成。三成が使用していた旗印・馬印には「大一大万大吉(だいいち・だいまん・だいきち)」という文字が記されていました。≪一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる≫という意味が込められているこの旗旗印・馬印は、三成の思想や理想を表したものだと考えられています。
今川義元
領国統治・外交で能力を発揮し、「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元。旗印・馬印には、今川家が用いたとされている家紋で≪赤い鳥と共に戦いなさい≫と神託を受けたことから使用されるようになったとされる「赤鳥紋(あかとりもん)」が記されていたといわれています。他にも足利家が使用していた家紋「足利二引両紋(あしかがふたつひきりょうもん)」が記された旗印・馬印も使用していたといわれています。
本多忠勝
徳川四天王のなかでも圧倒的な知名度を誇り、生涯で出陣した57回の合戦において、一度も傷を負わなかったことから、最強の武将とも呼ばれている本多忠勝。使用していた旗印・馬印は主に2種類だったとされています。ひとつは、白生地の旗の同部分が黒く、旗の上部には黒い字で大きく「本」の文字が書かれた旗印・馬印です。この「本」の字は、本多の「本」であり、本多家の家紋である「丸に立ち葵(まるにたちあおい)」紋を簡略化したものだともいわれています。もうひとつの旗印・馬印には「鍾馗(しょうき)」と呼ばれる道教系の神が描かれていたといわれています。
家紋と旗の関係
戦国時代の戦で使用されていた、多くの旗に必ずといっていいほど描かれていたのが、武将の家紋です。家紋は平安時代に貴族たちが、自分の所有する牛車 (牛が牽引した車)に独自の文様をつけて、ひと目で誰のものなのかが分かるようにしたことが始まりとされており、鎌倉時代以降に武士の間で「武家の象徴」として広く使われるようなったとされています。旗に家紋を用いることで、自らの権威や力を誇示して敵を威圧すると同時に、一族の結束力をより一層高める効果がありました。また、戦場の最前線では旗印として描かれた家紋は、自軍と敵軍を一目で見分けることができる目印としてとても重要な役割を果たしていたといわれています。
現代に残る戦国時代の旗
現在でも、一部の博物館(信玄公宝物館・井伊美術館など)や地域には、実際に戦国時代に使用されていた旗が保存されています。数百年の月日を経た現在、戦国時代に実際使用されていた旗の現物を直接目にすることで、書物やインターネットからは得ることができない、特別なイマジネーションが湧いてきます。機会がございましたら、皆様も是非足をお運びください。
まとめ
戦国時代の戦場において、旗は武将の個性を象徴するシンボルであり、戦況を左右する重要な役割さえ担っている、無くてはならない必需品であったということをご理解いただけたでしょうか。現在、私たちが親しんでいる旗とは用途や意味も大分異なりますが、先人達がどのような想いを抱きながら旗・軍旗を使用していたのかということに想いを馳せることで、戦国時代や歴史への理解が深まると同時に、私たちが普段何気なく使用したり目にしている旗に対する愛着もきっと沸いてくるはずです。